大友良英さん あまちゃんの曲

NHK連続テレビドラマ あまちゃん

放送が終わってしまいました。

高視聴率で人気ありました。

この「あまちゃん」の音楽をすべて担当し作曲したのが

福島県育ちの 音楽家 大友良英さん 54歳 です。



今週からあまちゃんビックバンドの全国ツアーを開催。

ドラマの舞台となった岩手県久慈市で講演開始

あまちゃん主題歌はCD売上 約5万枚

この大人気のオープニングテーマ曲の誕生秘話


大友さん「最初、久慈の町に来てうにを食べさせてもらたんです。
実際あまさんが海でとってきたうにを。
本当、美味しくて、ありえないくらいうまい。

その時思ったのは“うまい”って感情も理屈も超えていて人を笑顔にするんだ
だからそういう音楽を作ればいいんだ
 って思った


震災以降、8月中旬には福島で音楽イベントを毎年開催

プロジェクトFUKUSHIMA
2012年 「芸術選奨 文部科学大臣」を受賞


福島って名前が非常に不名誉な形で世界中に広まっちゃった
けど これをなんとかポジティブな名前に変換したい

「ただ辛かったり 生真面目に 何かに面と向かっているだけじゃ
人間って動けないないなって いうのをすごく実感して
笑い こそが人間のモチベーションになっている
笑いは理屈を超えますから
・・」


あきさせない曲を目指しました。
どんなにいい曲でも毎日聞いたらいやになる。
毎日飲んでも飽きない味噌汁のような
毎日聞いていもあきない曲を目指して作りました。

西郷頼母  八重の桜(西田敏行)

八重の桜で西田敏行さんが演じる西郷頼母(保科頼母)

この方は、会津藩の殿中武術 大東流合気柔術 の先生です。

八重の桜では、大東流合気柔術にまったく触れていませんが、

これは、世界に誇る合気道に伝承された武術です。


西郷頼母先生の弟子武田惣角先生が 北海道で合気道創始者植芝盛平先生に大東流合気柔術を教えたのです。

西郷頼母先生 → 武田惣角先生  →  植芝盛平先生

合気道人口は今や全世界160万人以上 

世界に誇る合気道は、西郷頼母 先生が、もし戊辰戦争で亡くなっていたら

現代社会に存在しなかったことでしょう。

日本の誇る武芸が途絶えていたかもしれないのです。

内閣府食品安全委員会
生涯放射線被ばく100ミリシーベルト

食品から受ける被ばくで健康への影響が見出されるのは
生涯の累積線量を100ミリシーベルトとすることとした。

現在の暫定規制値放射性セシウム
年間5ミリシーベルト
野菜1Kgあたり500ベクレル
肉 1Kgあたり500ベクレル
魚 1Kgあたり500ベクレル
飲料水1Kgあたり200ベクレル

食品安全委員会の答申で
食品以外での外部被ばくを含めていない。

日本チェルノブイリ連帯基金
鎌田 實 理事長

細胞は、内部被ばくと外部被ばくの両方が自分のDNAに対する損傷のリスクになるから
合わせて考えるというのが子供を守ろうとする国の姿勢としては、この視点が大事です。

ウクライナ基準
年間1ミリシーベルトを上限として各食品の規制値を決める

年間1ミリシーベルト
野菜1Kgあたり40ベクレル
肉 1Kgあたり200ベクレル
魚 1Kgあたり150ベクレル
飲料水1Kgあたり2ベクレル


長野県松本市 
学校給食の食材もこのウクライナ基準を採用している

長野県松本市 市長は菅谷昭氏
チェルノブイリ原子力発電所事故の際に、放射能汚染により甲状腺癌患者が急増していたベラルーシで医療活動をした過去があり、NHKプロジェクトXでも 紹介された。
当初はロシア語も上手くなかったが、患者には常に笑顔を絶やさなかったという。現地の放射能汚染のため、その後、胃がんになっていると話す。

命のビザ 杉原 千畝の信念

命のビザ 杉原 千畝の信念 ニュースフロントライン レポート

3.11 南三陸町 地域の中核病院 志津川病院が津波の惨劇を受けた

そこに待ち望んだ支援
プレハブ6棟に、レントゲンや応急手術設備 
医師団60名を率いて日本に一番乗りしたのがイスラエル
その背景にあるのは・・・
イスラエル ベンシトリット駐日大使
南三陸町に病院を開設したのは私達の感謝の表れです。
スギハラ氏がイスラエル国民やユダヤ人にしてくれたことに対して
日本国民に少しでも恩返しするためです。」

杉原に救われた マーシャレオンさん
「彼がいたからこそ、私は今 生きている
スギハラはヒーローです。」

杉原千畝 
戦前、戦後 外交官を務めた彼は国の命令に背きながら6000人のユダヤ人の命を救った。
正しいと思ったことを貫く生き方だった。
ドイツとソ連に挟まれたリトアニアは常に両国の侵略に怯える小国だった。
そこに領事館を作る狙い それは、ドイツとソ連の情報収集だった。

当時ナチスドイツは、ソ連との開戦をギリギリまで日本に伝えなかった。
それが伝えられる一カ月前に、いち早く察知し、日本に伝えたのは杉原だった。
1940年7月 ある朝
いつもは静かな領事館の前に、無数の人だかりが出来ていた。

1935年 ナチスドイツはニュルンベルク法ユダヤ人の市民権を剥奪。
ユダヤ人排斥を明確に打ち出した。
ドイツの勢力拡大と共に ヨーロッパ中を多い尽くした悪夢。
これが、反ユダヤ人政策  後の大虐殺 ホロコースト

ポーランドを追われ北に逃げて来たユダヤ難民達。
そうした彼らが辿り着いた一つが、リトアニアだった。

ユダヤ人代表
「我々はポーランドから逃げてきたユダヤ人です。
日本領事館に行けばビザが貰えると聞いてきました。
ビザを交付して頂きたい」
ヨーロッパを脱出したい。
ユダヤ人にとって最後の望みが日本の領事館だった。
日本の通過ビザで
シベリア鉄道を経由して日本に脱出。
そこからアメリカなど第3国へ向かう。
それしか生き延びる方法がなかった。

だがそこには、数々の困難があった。
一つはソ連によるリトアニア併合だった。
ソ連は日本などに8月末までに領事館閉鎖を求めタイムリミットが迫っていた。
更に問題なのは、ユダヤ人救済は、ナチスドイツへの敵対行為となること。
同時に日本の国策にも反する最大の問題があった。

三国同盟 
日本、ドイツ、イタリアが三国軍事同盟を持つという流れに、
大きな流れが日本とドイツの連携にあったので外務省サイドとしては、決して認める訳にはいかないことだった。
日独伊三国同盟が結ばれたのは、この2カ月後の 9月

同盟締結直前のこの時期 ドイツとの関係に気を使っていた。

大量の通過ビザを外務省に問い合わせた杉原。
杉原氏
ユダヤ人が日本を通ってよその国に行くから通過だけのビザをくださいと頼んだが、
外務省に聞いたが、外務省は頑として応じない。」

杉原と外務省とのビザを巡る駆け引き。
松岡外務大臣「旅費や日本滞在費用がないものには通過ビザを発給してはならない。」
杉原「日本の他にビザを発給する領事館はない。
避難民は領事館の閉鎖を見越し、日本の通過ビザを求めている。
彼らに事情は同情に値する。
そのため、目的地のビザがない者、所持金が不足している者にも、ビザを発給しているので認めて欲しい。」
何度打電しても結果は同じ。
こうした本国の命令は、外交官にとって絶対的な掟である。
元外交官 孫崎氏
「残念ながら、大使館の任務は、人道支援が任務ではない。
やり取りをした後、決定を外務省、日本政府がする。
それを、外交官は守らなければならない。」

杉原には分かっていた。
もし、彼らにビザを出さなければ、その先に待つのは過酷な運命だ。
杉原は悩み、自問自答する。
「対ナチ協調に迎合することによって、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで
ビザを拒否しても構わないとでもいうのか。」

妻 杉原幸子 1991年12月6日 徹子の部屋
「二人で二日二晩悩みました。非常に苦しみましたけど
主人は意思が強い人ですから、思ったことはやり遂げる性格ですから
何としてもこの人たちは、人間として助けなきゃならないという気持ちが始めからあったようです。」


こうして杉原は、朝から晩まで300人分のビザを手書きで作り始めた。
愛用の万年筆は折れ、手は筋肉痛で腫れ。指には豆ができたという。
そして遂に、ソ連からも日本からも領事館閉鎖の最後通牒が来た。
杉原はそれでもあきらめなかった。
領事館を引き払った後、市内のホテルに休暇の名目で数日間滞在し、そこでもビザを書き続けた。
滞在を伸ばし、時間稼ぎをする杉原。
そして遂にリトアニアを立つ時が来る。
ドイツ行きの列車が到着。
尚もビザを求め手を伸ばす人々に杉原は列車から身を乗り出しビザを書き続けた。
「許して下さい。私はもうビザは書けない。皆さんのご無事を祈っています。」

ユダヤ
スギハラ 私達はあなたを忘れまでん。もう一度あなたにお会いします。」
「あなたの恩は忘れません。必ず会いに行きます。」
ユダヤ人たちは列車を追いかけ叫び続けた。
杉原は、こうして6000人のユダヤ人の命を救った。

敗戦後 祖国で待っていたのは、冷たい仕打ち。
外務省「もう君のポストはない。辞職して頂きたい。理由はおわかりでしょう。」
外務省を追われた杉原は、子供を抱え食べるための仕事に没頭する。
 電球売り、雑貨屋、塾の講師など

雑貨屋を一緒に手伝っていた甥の杉原直樹さん
「一緒に住んでいた時も、
外務省退職した話は一切語らなかった。ユダヤ人を救った話も聞かなかった。」
その後、得意のロシア語を生かして商社の駐在員としてモスクワに単身赴任。
そこの元同僚 川村さん
「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、
決して、上から見下ろしたり差別したりしなかった。」

戦後の混乱を自ら生き抜いた杉原は、
一方で戦後、自らの体験を封印

その同じ頃 ある動きがあった。
ユダヤ人たちが次々来日し、杉原の消息を探していた。
「あなたの恩は忘れません。必ず会いに行きます。」
リトアニアで交わした約束。それを果たそうとしていた。
しかし、そんな彼らに外務省の対応は冷淡だったという。
「センポ杉原という人物は、いままで外務省にいた形跡がないからどこに行ったか分からない」
センポとは千畝の音読み。杉原は外国人が発音しやすいようにセンポと名乗っていた。
それでもユダヤ人たちは諦めなかった。
1968年 遂に探し当てた。このとき68歳
外務省を辞職に追い込まれてから20年
あのリトアニアの出来事
杉原は初めて身を投じて下した信念の決断 その顛末を知る。
杉原ビザで救われた、イスラエル宗教大臣との会談

アメリカ ニューヨーク
杉原ビザに救われた マーシャレオンさん80歳
「ドイツ軍は我々ユダヤ人を壁一列にならべ番号をつけていった。
そして夜明けに奇数の番号を処刑していった。
私と母親は偶数だった。そして残りはもう行っていいと言われた。
そのドイツ軍司令官の全くの気まぐれだった。」
マーシャさんは母親と杉原ビザを手に入れシベリア鉄道で日本に逃れる。
「日本を目指したのは、それがまさに生きることを意味していたからです。
想像も出来ないでしょうが、我々ユダヤ人にとって日本は本当に天国でした。
ソビエト軍はいないし、生命の危機もない。収容所も爆撃もない。」
こうしてユダヤ人をホロコーストから救った杉原のビザ
約6000人と言われる生存者の子孫は、今や25万人ともされる。杉原が救った命 彼らは永遠に「このことを語り継ぐ。
マーシャさん
杉原は聖人です。彼はヒーロー以上のとてつもなく勇気のある人です。
なぜなら、ヒーローは偶然そうなれることもありますが、
勇敢であるためには、自ら決断しなければなりませんから、
彼は自分の心の声を聞いた人でした。」

一方杉原はリトアニアに残ったユダヤ人たちの結末を知る。
領事館のあったカウナスの処刑場で約5万人のユダヤ人が処刑された。

もし杉原がいなかったら6000人のユダヤ人も殺されていた。
杉原はそれを聞いて泣いたという。
ユダヤ人は必ず会いに行くという約束を果たした。
記憶の封印がとかれメディアで公となる。

1969年 イスラエル政府から勲章を授与。
1985年 ヤド・バシェム賞を授与
このとき杉原85歳 外出もままならない体
翌1986年7月31日 永眠(享年86歳)
その死から5年 当時政務次官だった鈴木宗男氏の働きかけにより
ようやく外務省と杉原氏側との和解

信念の外交官 杉原の生きざまは
今の日本人に何を伝えるのか

ペンシトリック駐日大使
イスラエルにとって杉原は国民的英雄です。
ドイツの同盟国である日本の外交官としての立場にもかかわらず
6000人のユダヤ人を救うという個人的な決断をしたからです。
これは、私達にとって奇跡です。」

マーシャさん
あなたは、自分の家族や将来を犠牲に出来ますか?
政府で働いていて汚職を発見したら、それを告発できますか?
杉原氏はそんな誰もができないことを世間の常識にとらわれずやり遂げた。
模範的な官僚だったらビザは発給されなかったでしょうが彼は違った。」
千畝の息子の妻
「自分で決断したそこの強さですね。命に対する思いと強さ、大事なものは大事だという信念というか
何が正しい 何が正しくない ということではない。
その人が正しいと思ったことをすべき。」


杉原さんのような方が東電、経済産業省原子力安全保安院に居たなら福島原発事故は起こらなかったでしょう。
彼らは、将来の日本より自分達の利益と地位保全を優先する生き方をしてしまいました。
でも、3.11を経験した以上 信念を貫く人が出てくると信じています。

私達、日本人全員に言えることですが、
これからの日本復興・再生にむけて自己犠牲を払ってでも人の為、日本の為、世界の為に
自分の信念を貫いて決断できる人間が
どれだけ居るかに掛っているようです。

私達が生きていて、
その時手にする贅沢や地位は本当に価値のあるものでしょうか?
本当の価値とは、人に喜ばれる感謝される事と
私達は知っているはずです。

地域医療を支える看護師を増やす驚きの秘策

TBS夢の扉 4月3日放送
五十嵐里香看護部長 看護師を増やす→医療サービス向上!

全国的な看護師不足

五十嵐さんは日本が抱える大きな問題に取り組み実績をあげてきた。

けいせい会 東京北部病院(足立区)
3年で看護師数65名→105名に増やす
過去 福島県A病院 35人→55人
   千葉県B病院 150人→190人
医療の質・サービスを向上させてきた。

いったいどんな方法で看護師を劇的に増やしたのか?

柏たなか病院(千葉県柏市
この病院は5年前閉鎖寸前に追い込まれた。
医療法人あおい会が再建し黒字経営。
昨年10月から五十嵐里香さんが看護部長として赴任。

秘策1 看護師の復職支援セミナー

病院を辞めた看護師たちに復帰を促す講習会
日本全国で看護師免許を持っている方175万人
働いている看護師は120万人
55万人が何らかの理由で働いていない。
結婚 家に入ると子供優先に考えてしまう。
子供が大きくなり復帰したいが、不安。

セミナー告知
病院にポスターを張る
新聞に織り込みチラシの広告
セミナー当日
地元に住む元看護師5人が集まった。
6年から14年のブランクがある
基本的な機器を使うことで現場の勘を取り戻す。
新しい医療機器の使い方を丁寧に教える。


五十嵐里香さん福島県生まれ
会津中央病院勤務
36歳で看護部長に
看護師が辞めていくことに直面
責任者として病院に看護師不足を訴える。
解消されない問題に、自分で看護師を集めることをはじめる。
45歳で初めて復職支援セミナーを開く。
辞めていった看護師に復職を呼び掛ける。
ホームページや就職情報誌を使い看護師募集。
子供を持つ看護師のために病院内に24時間オープンの保育所を開設。
職場環境を整備することで看護師が定着。



2月になり退職届が・・
小学生に入る子供を持つ看護師達
夜勤など不規則な勤務が多く子育てとの両立は負担が大きい。
柏たなか病院
24時間オープンの保育所で6歳児までの施設はあるが
小学生のための施設がない。

秘策2 学童保育設立に動き出す。
病院まで遠い小学校もある。
送迎バスが必要になる。バスを乗るのに小学校の先生にも協力を依頼。

半年で30名増やすことに成功

2020年までに日本中の看護師を笑顔にしたい。
病院に看護師が増えることで医療サービスが向上します。

五十嵐さんの活躍に頭が下がります。
福島県中の病院が五十嵐さんのシステムを取り入れて
もっと看護師さんが働きやすい環境になればいいですね。

がんばろう福島 感謝